村下孝蔵さんのお祖父様は村下改蔵さん、村下興業社の社長でありました。

また、水俣市の市政施行に伴い、初代市議会の議長を務められ、商工会議所の会頭もされました。

さて、村下興業社は、仲之町に2軒の映画館を経営されていました♪


昭和35年の水俣・津奈木住宅地図を市立図書館で発見し確認いたしましたら、太陽映劇では、大映と松竹を。コトブキ映劇では日活と東宝を封切りしていたようで、今の山下ビルが太陽で、第2山下ビルがコトブキです。

因に藤川興業社と言うのは、みさの窯の田中さんの家系で、岡部病院の場所にて第一東映、第二東映を封切りとした水俣東映をされていました。

その名残は、お向かいの喫茶アマンドさんに柱時計があります。


東映


さて、戦時下に学徒動員を経験された方にお話を伺う機会がありました。

その方は汽車通をされていて、水俣駅を降り立つと時折、米機のグラマンが機銃掃射で日窒ことチッソ(現JNC)を攻撃するので、豪に避難して収まった頃にチッソへ向ったそうです。

そして、戦後、、水俣高校の学生と成られた時の事。
テスト期間で早く学校が終わる為に友達とコッソリ映画を観に行ったそうです。

当時は芝居小屋だった永楽座を改装してコトブキ映劇を営んでいたと聞いています。

当時人気を博した、愛染かつらは、大映。また、君の名はは、松竹。
太陽映劇は大盛況だったそうで、、、あまりの人だかりに床が抜ける事故が発生します。

そこに現場検証で訪れていた水俣署員に「こらー💢💢💨お前たちは、学校は?‼」とこっぴどく叱られたそうです。


さて、村下孝蔵さんが卒業し、村下家が水俣を離れた後は山下さんが引き継いで昭和後期まで続きます。

この方は現山下ビルの方だそうで、看板の絵師をされていたそうです。



五社協定(ごしゃきょうてい)は日本の大手映画会社5社(松竹東宝大映新東宝東映)が1953年9月10日に調印した専属監督俳優らに関する協定。後に日活が加わり、新東宝が倒産するまでの3年間は六社協定となっていた。

Wikipediaより。

テレビへの映画俳優などの出演なども自粛していました。

映画が一時的にテレビに取って代わられますが、村下興業社もそのあおりを受ける形で、他の方が引き継ぐ形で昭和の終わりごろまでは残っていました。


🎥懐かしい映画館への誘い🎬


~太陽映劇~









~コトブキ映劇~