淵上毛錢先生

大正4年1月13日に陣内にて生まれます。
父、淵上清 母、多子(たね)の次男として。
8才の頃には満州に一年間過ごす。
昭和3年13歳で、九州学院に入学し同郷の深水吉衛(ふかみきちえ)と寄宿舎で一年間同居。
深水は後にVictor専属歌手になり、俳優としても映画などで活躍。
昭和四年14歳で、青山学院大学中等部へ転校。
チェロに熱中したり、喫茶店ハンローに通い、常連の詩人山之口漠と振興を深める。
昭和6年、青学を自然退学。
それから、病気などもあり寝たきりにもなりますが昭和19年、母や自身を看護していた田中房枝に代わり来ていた中村ミチエと結ばれる。子供も授かる。
昭和23年~24年、質屋業に手を染める。すぐに駄目になりますが資金を任せていた者に使われてしまった為だそうだ。
同年、水俣市の現コア21前の旧みやこ堂薬局付近、10月5日水俣市大園1-1の郵便局前にて、とんちん亭と言うお惣菜洋食店を開店。長続きはしなかたったそうだ。
そして、昭和25年35歳で、脊椎カリエスの悪化によりこの世を去る。
享年35歳。




徳富蘇峰先生

生い立ちと青年時代編集

1863年3月14日文久3年1月25日)、肥後国上益城郡杉堂村(現熊本県上益城郡益城町上陳)の母の実家(矢嶋家)にて、熊本藩の一領一疋の郷士徳富一敬の第五子・長男として生れた[1][2][3]。徳富家は代々葦北郡水俣惣庄屋代官を兼ねる家柄であり、幼少の蘇峰も水俣で育った。父の一敬は「淇水」と号し、「維新の十傑[注釈 1] のひとり横井小楠に師事した人物で、一敬・小楠の妻同士は姉妹関係にあった。一敬は、肥後実学党の指導者として藩政改革ついで初期県政にたずさわり、幕末から明治初期にかけて肥後有数の開明的思想家として活躍した[1][4]

蘇峰は、8歳まで水俣(浜村、通称居倉)[5]に住んでおり、1870年(明治3年)の暮れ、8歳の頃に熊本東郊の大江村に引き移った[6]

(Wikipediaより)


弟には、蘆花先生もいます。


実は蘇峰先生,蘆花先生の生家は浜居倉と言う分家に対して、昔軍医の田上先生がされていた田上皮膚科は、本家の北酒屋になります。

そして、田上皮膚科の早くに亡くなられた若先生の奥様宅は、かつて村下興業者の社長、村下改蔵氏の邸宅で村下孝蔵さんの祖父に当たる方です。

また、その家もかつて新酒屋と呼ばれていて、徳富家の分家で有りました。



淵上毛錢先生を紐解くと。


東京熊本県人会
新着情報一覧
新宿くまもと物語「わが青春のムーラン・ルージュ」


新宿くまもと物語「わが青春のムーラン・ルージュ」東京公演   昭和という時代に目を向け、学生などの青春の街、新宿を彩った軽演劇と歌と踊りの「ムーラン・ルージュ 新宿座」を取り上げることにしました。終戦後、焼け跡のなかから復活しますが、そこで舞台美術を担当した中村公彦を主人公に、歌あり、踊りあり、笑いあり、そしてペーソス漂う舞台を出現させます。  中村公彦は明治の近代化に尽くした元熊本藩士野田豁通男爵の孫で、幼年期、熊本市本山の石光真清の生家で過ごしました。濟々黌から早稲田に進み、三菱の社員になりますが、戦争末期、愛する妻子を亡くし、悲嘆の日々からもう一度生き直そうと決意、美術家になりたかった夢を戦後、舞台や映画の世界で実現させます。木下恵介監督「二十四の瞳」や川島雄三監督「幕末太陽伝」など多くの名作にかかわっております。  明日待子や小柳ナナ子、森繁久彌や楠トシエなど戦前・戦後のムーランで活躍した実在の人物も登場。浜畑賢吉(俳優・大阪芸術大学舞台美術科長)が森繁久彌を演じるほか、ナビゲーターとして観客をムーラン・ルージュの舞台へと案内いたします。オペラやダンス、演劇など熊本を本拠に中央や海外でも活動しているベテラン、新人が出演します。 日時 平成27年2月14日午前の部11:00、午後の部15:00 場所 新宿区 四谷区民ホール 料金 3000円 お問い合わせ・チケットのお求めはお菓子の香梅内、同事務局 電話096-366-5151           モデルとなっている主な熊本人  ●イモ男爵(主人公)  中村公彦(なかむら・きみひこ)   舞台美術家、映画美術監督 1916年(大正5年)3月、熊本市生まれ。日清戦争での功績で男爵となる野田豁通が熊本に残した孫。旧姓野田。石光真清(軍人、「城下の人」の著者、熊本県近代文化功労者)は野田男爵の甥。幼年期、中村は熊本市本山に残っていた石光家の旧居で育つ。濟々黌、早稲田大学商科を卒業。三菱重工業本社に勤務するサラリーマンだった。戦争末期、結核療養のために熊本に帰省させた妻と幼子を亡くす。演劇界への第一歩は戦後の1945年(昭和20年)に劇団「小議会」の発足に参加したことから。この「小議会」は戦前の「ムーラン・ルージュ」を実質的に継承した集団だった。1947年、新生「ムーラン・ルージュ」の誕生とともに本格的に舞台美術に取り組み、舞台美術家「中村夏樹」は知る人ぞ知る名前となった、その後、映画の松竹大船に移り、木下恵介監督「日本の悲劇」「女の園」「二十四の瞳」、日活に移籍し、川島雄三監督『幕末太陽伝』、井上梅次監督「嵐を呼ぶ男」「明日は明日の風が吹く」、今村昌平監督「豚と軍艦」「にあんちゃん」、裏山桐郎「キューポラのある街」など多くの名作・話題作の美術を担当した。  ●坊っちゃん  竹崎有斐 児童文学者 竹崎順子のひ孫。濟々黌、早稲田に進み、早稲田童話会に入る。有斐学舎で寮生活しながら、童話を書き続け、学徒出征する。復員後、作家をめざし上京。作品に『花吹雪の如く』など。故人。  ●深水清衛 (実名) 1910~1967  水俣生まれ、九州学院、青山学院中退。ムーラン・ルージュに昭和16年前後在籍。昭和13年(1938)、堀田敬喜の芸名で「暗い日曜日」を吹きこむ。堀田敬喜はホットケーキをなぞったもの。フランスのダミアによって歌われ、世に知られ、この曲を聞いて自殺者が相次いだという伝説がある。吉本興業に移り、応召。シンガポールから内地に送還、広島陸軍病院で被爆。 戦後、淵上毛銭の作詞、滝本泰三の作曲、深水吉衛の声楽で「小さな町」のリハーサルを水俣の町の映画館で開く。火野葦平の妹と再婚。映画界に入り、わき役として多くの作品が残る。      新宿区にあったレビュー劇場「ムーラン・ルージュ」について  昭和6(1931)年11月、新興芸術派の新進作家吉行エイスケ(吉行淳之介の父)、竜胆寺雄(りゅうたんじゆう)らの肝いりでそれまで映画館だった新宿座を改装してレビュー劇場として誕生。場所は武蔵野館通り。屋根の上に風車があり、座席は130。ムーラン・ルージュという名もパリの本家にあやったて吉行エイスケが命名したと言われる。座主はそれまで浅草玉木座の支配人だった佐々木千里。文芸部長は島村竜三(ハナ肇の義父)。「新喜劇」を標榜し、阿木翁助、伊馬鵜平(のち伊馬春部)。その脚本の感覚の若々しさで、インテリ層や学生らのファンを引きつけ、明日待子(まつこ)、望月美恵子(のち望月優子)小柳ナナ子らのスたーを誕生させる。なかでも明日待子はアイドルスターとなった。  敵性用語禁止令にともない、「作文館新宿」と看板を変えて興行を地付、昭和20(1945)年5月の東京大空襲で焼け落ちる。  終戦の月の8月、跡地に物置小屋のような劇場「笑楽座」が出現。戦前、ムーランの文芸部にいた中江良夫が復員してきて、ムーランの残党が彼を担ぎ出し、小柳ナナ子らも参加して、昭和21(1946)年5月、「赤い風車 新宿座」がオープンするが、解散。佐々木千里主宰の劇団「小劇場」がに引き継がれるが、戦前の演物ばかりで客足が落ち、22(1947)2月解散、4月に新生「ムーラン・ルージュ」が復活する。座主は宮阪将嘉、三崎千恵子。三崎はのちの「男はつらいよ」のおばちゃん役だ。由利徹、春日八郎、楠トシ子などが所属。満州・新京から引き揚げてきた森繁久彌もいた。  昭和25年9月、「ムーラン・ルージュ」は幕を閉じた。    


東京熊本県人会HPより引用https://kumamoto-kenjinkai.com/m/info/infodetail.php?datakey=560


さて、淵上毛錢先生は昭和12年の夏場に結核性股関節炎が悪化して夏ごろに2ヶ月ほど、主治医の徳永医院の徳永正先生に診てもらい療養。

徳永先生には、俳句の面白さを教えてもらい俳句の世界にも造詣を深めます。

因みに徳永先生の俳号は月草。

この徳永先生の従兄弟と言うのが徳富蘇峰先生、蘆花先生であります。 


翌年13年には、深水吉衛さんがVictorの専属歌手になったのを御祝いするべく

旭町の美寿屋と言う料理屋で祝賀会を催しました。  


昭和10年に知り合って以来、無二の親友となるのが、詩にも書かれた吉崎さん。


~誕生~

直彦が今日も来た 

おい また生れるんだ 
いゝねと僕 
なにかいゝ名前がほしいんだ 
うんと僕 
考へといて呉れよ 
うんと僕

直彦が今日も来た 
炎とつけろよと僕 
焔? 炎?
どっちでもいゝが 火の二つ重なる方が 
いゝぞと僕 
男でも女でもか 
うんと僕 
直彦は黙ってゐた

 ねえ おい 
 この現実から始まる 
 新らしい児の時代 それはもう 
 絶対に信じてよいのだ 
 新らしい児を めらめらと燃えさせるんだ めらめらと

直彦は黙ってゐたが 
僕と同じ考へである

よからう 
女房にも言ふておこう

直彦は寒い夜道を 
帰へつて行つた



つづきは、こちら。